1/22 若い人のための日曜日の聖書 年間第3主日 マタイ 4:12-23

春が待ち遠しい木蓮

「あなたの痛みを背負うため、私は〇になりましょう」。

えっ、なにこれ!と思われるでしょうか。

もちろん聖書ではありません。最近、ゆえあって読んだ本の帯に書かれていた言葉。すなわち、本文中にある数々の表現の中から、「帯」にふさわしいとして選ばれたインパクトある句がこれです。〇のところには、実はある動物名が入るのですが、聖書エッセイにはあまりにふさわしくないかなあと思い、〇としました。でも、この本に関しては、またあらためて書きたいと思います。

 

「人間をとる漁師にしよう」

この言葉もなかなか刺激的です。学校で宗教の授業をもっていたとき、時々誤解する生徒がいました。「人を魚扱いするなんてイエス様はヒドイ」と。

 

イエス様はどうしてこのような表現をされたのでしょうか。

何と言っても、最初の弟子たちが漁師だったからでしょう。

「魚をとるだけの漁師でなく、人々の心に働きかけて、人々のために私と一緒に働いてみないか?」

「人々の心って、人々のためにって、私と一緒にって・・・」どういうことだろうと兄弟で顔を見合わせながら、それでもなぜか心惹かれてイエス様についていくさまが目に見えるようです。

そう、最初に釣られたのは、漁師であった彼ら自身でした。

「ミイラ取りがミイラになった」という面白い表現がありますが、「漁師が釣られちゃった」のです。

二千年後に生きている私たちも、それぞれ「釣られちゃった」のです。そして、福音宣教という「釣る」仕事をイエス様と一緒にするよう招かれています。

 

イエス様、私を釣ってくださって感謝です。あなたが釣ってくださらなかったら、きっと今ごろ、世間という大海の中でおぼれていたことでしょう。宣教の困難さは、あなたがだれよりもよくご存じです。それでも、あなたの小さな魚として、宣教に励めるよう勇気と恵みを注いでください。

 

≪聖書箇所≫ マタイ 4:12-23

(イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。