4、5日前、春一番が吹きました。修道院の庭に出ると、すべての草木が「春だよ」「春が来たよ」と叫んでいるかのようで、3週間ほど前までの厳冬の寒さがうそのようです。
ビロードのようなつぼみ(正確には、鱗片葉というのだそうです)から、白木蓮の真っ白な花弁がこぼれています。
ひっそりと咲く沈丁花の香りは、なんと高雅なのでしょう。
そして、桜の木!
まるで、Zoomや写真アプリのピンクのフィルターをかけたように、木全体がピンクの靄に包まれて、開花の時を待っています。
春はまさに変容の時です。
イエス様のご変容に立ち会った弟子たちは、畏れ驚きます。
彼らがよく知っている普段のイエス様、おそらく日に焼けて、弟子たちと同じような土埃にまみれた服をまとい、汗のにおいのするイエス様とはあまりに異なるお姿だったからでしょう。
本当は、ご変容のイエス様こそ本来のイエス様のはずなのに。そして、本来は光輝く方が、私たちと同じ人間になってくださった、ということこそ、もっとも尊いことなのに。
最近、修道院にいらしたある神父様が、四旬節の過ごし方として、次のような話をしてくださいました。
四旬節に勧められる「祈り、施し、断食(または節制)」とは、「神様との関わりの見直し、隣人との関わりの見直し、そして、大地の実りと私たちの口の間に存在する社会との関わりの見直し」と。
神様、隣人、社会と「私」の間にいらっしゃるイエス様、ご変容のイエス様であり普段のイエス様である方を見詰めながら、この神父様のお勧めを心に留めて過ごしたいです。
≪聖書箇所≫ マタイ 17:1-9
(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。