4/30 若い人のための日曜日の聖書 復活節第四主日 ヨハネ 24:13-35

ここ2 、3日、私は必死で統計学のレポートを書いていました。
メインは、Excelの関数で表やグラフを作って分析することなのですが、データとしてあるのが、47都道府県の昨年の生活意識調査で、これはなかなか興味深い資料です。
私は、福島県を選び、指標として「子育て」と「ライフプラン」を選びました。
分析からは、子育てに不安を抱きながら、ライフプランを立て、あるいは立て直しながら生きていく福島県民の健気な姿が浮かび上がってきました。
データそのものは、実際にある調査会社がアンケートした結果ですから本物ですが、分析と言うのは、いつも「見たいものを見ているのではないか?」と疑ってかからなくてはなりません。
若い頃に勉強した音楽学の大学1年生が読む教科書にはこんなふうに書いてあるのを思い出しました。
「音楽学は、楽譜の分析をもとにして、白を黒とも、黒を白とも論じられる学問である」。
これを初めて読んだ時は、本当に驚いて、「これでも学問って言えるのかしら?」と真剣に悩んだものです。
今は、学問も科学も、人間が関わる以上、その程度のもの(ゆとりというか、誤差や幅があるもの)と考えています。

さて、明日は羊さんの日です。
羊さんは、どうして羊飼いの声が聞き分けられるのかしら?
もちろん、私たちだって、親しい人の声を別の人の声と間違える事は滅多にありません。

羊さんにならって、イエス様の声を、確かにイエス様の声と聞き分けられる者でありたいです。
あまりに雑音の多い現代社会。
他の人の声と聞き間違えると言うより、イエス様の声そのものが聞こえなくなってしまいそうです。

分析や解釈に幅があってもいいけれど、イエス様の声は、だれの声でもなくイエス様の声。

イエス様、あなたの美しい声をいつも聞かせてくださいね。私を名前で呼んでくださるあなたの声が、私は大好きです。
これを書いている今日、4月29日は、シエナの聖カテリーナの日ですから、イエス様にラブレターをたくさん書いた聖女にならって、私もイエス様にラブレターを書きます。

イエス様、どうかあなたの優しい声を私の中に響かせてください。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 10:1-10

(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。