4/23 若い人のための日曜日の聖書 復活節第三主日 ルカ 24:13-35

毎春撮影する調布修道院メンバーの集合写真です。

恐れにとらわれているとき、人間の目はさえぎられていて、何かが大げさに見えたり、あるいは見えるはずのものが正しく見えなかったりするようです。

春爛漫のご復活節に季節外れで恐縮ですが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(横井也有)とはよくぞ詠んだものです。

エマオに向かって、おそらくエルサレムから落ち延びようとしている二人の弟子は、きっと恐れに捉えられて足早に歩きながら、こんな繰り言を繰り返していたに違いありません。

「ああ、イエス様に期待していたのに」

「あんなに無残な最期を遂げるなんて」

「神様の御子だっていうのは、本当だったのかなあ、神様はまったく助けに来てはくださらなかったじゃないか」

「復活だなんて、嘘か幻にきまっている」

「女たちの話だ。とても信じられない」

「もうエルサレムになんていられないよ、俺たちまで逮捕されて殺されるかもしれないのに」

「これから、どこでどうやって生きていったらいいのか・・・」

あれっ、これってクレオパともう一人の弟子の嘆きに過ぎないのでしょうか。

シチュエーションは違うにせよ、私自身、しばしばこの二人と同じとうなことを繰り返していることに気づきました。

疲れたり、周りの人の無理解に遭遇したりした時の私の反応は、この弟子たちに非常に似通っています。

それにも関わらず、密かに私の背後に歩み寄って、私に語りかけてくださるイエス様に感謝です。こうして語り続けていただいているからこそ、まがりなりにも修道生活が続いているのですから。

この二人がエマオへと辿った道を回れ右してエルサレムにひき返したように、「マリア」と名前を呼ばれたマグダラのマリアがイエス様の方に向き直ったように、私も背後から語り続けてくださっているイエス様に日々向き直りたいと思います。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 24:13-35

この日、(すなわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。