「種まきのたとえ話」と言えば、「タラントのたとえ話」や「放蕩息子のたとえ話」などと並んで、カトリック学校の入学式、卒業式の朗読個所として、また宗教の時間に扱う題材として、定番中の定番です。
長い間その世界にいたので、ついついどのように生徒たちに提示していたかということから離れられないのですが、今回「種まきのたとえ話」を読み返してみて、こんなことに気づきました。
神様は、どんな土地であっても、倦まず弛まず蒔いてくださっているのだ、ということ。
私たちが「種をまく人」だったらどうでしょうか?
なるべくよく発芽して、すくすく育ちそうな土地を選んで蒔くのではないでしょうか?
種である実は、食べないでとっておいた大切な実ですから、ここはダメそうだと思ったようなところには蒔かないのが人間です。
でも神様は違うのです。
ほら、私という気難しい土地にも、あなたという気まぐれな土地にも、蒔いてくださるのです。しかも、惜しみなく!
「弘法筆を選ばず」という有名な言葉がありますが、まさに「神様土地を選ばず」です。
この神様の想像を絶する寛大さに感謝しながら、イエス様と共に歩む一週間にしたいです。
≪聖書箇所≫ マタイ 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》