8/20若い人のための日曜日の聖書 年間第20主日 マタイ 15:21-28

沸騰しそうな猛暑の中、けなげに咲いている唯一の花です

最近、必要に迫られて、発達心理学の本を何冊か読みました。
その中で大変興味深かったのは、乳児の時には持っている認知能力が、大きくなるにつれて消えてしまうと言ういくつかの例です。

ひとつは聴覚の例で、RとLの区別。多くの日本人が外国語を勉強するときに苦労するハードルのひとつですよね。
なんと赤ちゃんは、日本語母語話者に育てられたとしても、6か月ごろまではRとLを聞き分けるのだそうです。
ところがその後、1歳ぐらいまでにこの能力は消えてしまいます。

もうひとつはやはり生後6か月ごろには、人間だけでなく猿の顔も見分ける(個体と個体の識別ができる)のに、これも9か月ころにはなくなってしまう、という視覚の例です。
もちろん、なくなってしまう理由は簡単で、日本語話者の間で生活している限り、RとLの区別はいらないし、人間社会で暮らしている限り、猿の顔を見分ける必要はないからです。
これだけ聞くと、猿の顔は、ともかく、「残念、RとLが聞き分けられたらいいのに」と思いませんか。

でも、がっかりすることはありません。これらの知覚を失う分の余地は、もっと生きるのに必要な能力の獲得に振り向けられるのだそうです。

発達心理学の本には「神様のかの字」も書いてないけれど、あまりに精巧な私たちの知覚能力の仕組みに、私は神様を持ち出すしかありません。

こんなに、こんなに私たちのことを考えて作ってくださっているなんて、いくら神様に感謝してもしきれません。

神様、今回の聖書箇所に登場する女性の言うように、いただいたすべてのことを、テーブルの下の子犬になってすべて受け止めます。おなかのすいた子犬は、小さなパンくずさえ見逃さないでしょうから、私も感謝してそうします。

そして、今いただいているすべてを、あなたのために使いたいです。どうか、私の人生の最後の日まで、そうできるように支えてください。

 

≪聖書箇所≫ マタイ 15:21-28 

(そのとき、)イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。