カラスなぜ鳴くの?
と言ったら、皆さんにとっての続きは「カラスの勝手でしょ」でしょうか?
これでは、「七つの子」の詩人、野口雨情がちょっとかわいそうですね。
この「なぜ鳴くの」のように、日本語の「なぜ」には、論理的な理由を求めると言うよりも、親しい相手の心の奥底まで知っていて、なおかつ「わかっているよ」と言う意味で使われることがあるような気がします。
聖書の中の「なぜ」、特にイエス様が親しい者におっしゃる「なぜ」も同じです。
ヨハネ福音書の18章で、マグダラのマリアに復活したイエス様がおっしゃる「なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」。
イエス様はマリアに理由を求めているわけではありません。
「私を探して泣いているのだね。ほら、ここにいるよ」。
ペトロに対する「なぜ」も同じです。
「大丈夫だよ、よそ見をせずに私を見なさい」。
イエス様、よそ見をしては溺れそうになっている私です。あなたから目を離す生き方にならないように、助けてください。
≪聖書箇所≫ マタイ 14:22-44
(人々がパンを食べて満腹した後、)イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。