8/6 若い人のための日曜日の聖書 主の変容の主日 マタイ 17:1-9

ゼラニウムにとまったトンボ。庭ではうるさいくらいのミンミンゼミの声。押し寄せて来た暑い暑い夏も、衰えつつはあるようですね。

私たちCND姉妹とアソシエートは、

イエス・キリストに根差し、

愛と「共にある心」と感想的な対話のうちに、さらに前進を続け、

私たちのすべてのかかわりを人間らしいものとし、

自らが変容されることを望みます。

これは、2021年の夏に行われた私たちの修道会の総会が、「2026年に行われる次の総会まで、このように生きていきましょう」という趣旨で出した「宣教方位」です。

そしてそのあとしばらくして、「変容プロセス委員会」ができました。

ある時は共同体の中で、別の時は2か国語(つまり別の国の姉妹たちと)で分かち合いが行われ、「変容」がどのように「私自身の中で、共同体の中で」進行しているかを確かめながら進んでいます。

もしここまで読んでくださった方がいらっしゃるなら、「これって何のこと?」ときっと疑問に思われるでしょう。

イエス様のこの世での最後のころ、イエス様に期待を寄せていた人たちのことを考えてみましょう。

「きっと、ローマをやっつけて私たちを解放してくれるよ、あれだけの奇跡を行えるのだから」

「威張りくさった律法学者や厳しいばかりのファリサイ派と違って、神様を信じるのが楽そうだよ。安息日も守らなくていいみたいだし」

「徴税をなくしてくれるかもしれない」…人々は勝手な期待をイエス様にかけていました。

社会の底辺にいた人々にとって、それは当たり前の願いだったかもしれません。でも、このような人たちにとって、イエス様は期待外れでした。イエス様は、奇跡を起こすこともなく、黙って十字架上で死んでいかれたのです。

イエス様は、人々が自分にかけている期待をよくご存じでした。そしておそらく、「いかに外界が変わっても、あなたの内面が変容しない限り、何の変化も起こらないよ」と私たちに教えてくださっているのです、あの当時も、今も、そしていつも!

信仰とは、イエス様だけがおできになる「私の内面を変容させる」という奇跡を信じて、そこに信頼しながら待ち望むことです。それこそが、私に起こりうる最大の奇跡なのですから。

≪聖書箇所≫ マタイ 17:1-9     

(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。