久しぶりに友だちが訪ねてきました。2時間、彼の悩みごとを聞きながら、解放への糸口がまったくない問題と、何ひとつ手助けできない自分の情けなさに押しつぶされそうでした。それでも彼は、「聞いてくれてありがとう」と言い、自分はこのどうしようもない問題をすっかり神様にお委ねしている、と笑いながら帰っていきました。
彼は確かにしっかりと「十字架を負」っていました。家族への愛のために負っていました。私は、砂をかみしめるような苦々しさを自分の十字架と感じました。
神様、今、この十字架をしっかりと負わせてください。あなたが今日、私のもとに遣わしてくださったこの友は、あなたご自身だったのですね。あなたの素晴らしいお姿を見せてくださったことを心から感謝します。そして、私を励ましてくださったことも。彼と彼の家族のためにできる唯一のこと、祈りながら、またこの一週間、生きていきます。
≪聖書箇所≫ マタイ 16:21-27
(そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」