9/10若い人のための日曜日の聖書 年間第23主日 マタイ 18:15-20

夏枯れから秋に移行しつつあるルルド

先日、一緒に研修会のお手伝いをした、ある修道会のシスターTは、中学一年生で「修道生活って楽しそうだなー」と思って、修道院の門を叩いたのだそうです。
修道会によっては、このように若いうち(幼いうち?)から志願者を受け入れ、大切に少しずつ育てていく会もありますし、私たちの修道会のように、できれば学校を終わって、社会経験を少し積むことを入会者に求めると言う会もあります。
どちらにも、それぞれの良さがあると思いますが、若い時に入会された方には、私のように30歳近くになって入会した者には及びもつかない、深いところに染み込んだ信仰が感じられます。
それでも修道生活を重ねていくと、なんとなくどこかに染み込んだものは、(深さはともかくとして)あるようです。
割合最近になって、修道会と全く関係のないところでしばらく働きましたが、なんとなく違和感があったのは、仕事始めの朝礼です。
何の違和感だろうとしばらく考えて、やっと思い当たりました。朝礼が、お祈りで始まらないのです。
中学高校に勤めていた時は、先生方の朝礼も、生徒との朝礼やホームルームもお祈りで始まりました。職員会議もおなじ。すべての授業は、30秒ほど沈黙して、腰を立てて黙想するところから始まり、私が受け持っていた宗教の授業は、さらに5分間黙想をして、振り返りを書いてから始めていました。

このようなことがすっかり身についていて、「お祈りなしの朝礼」に違和感を覚えたことに、我ながら驚きました。

一方で、ごミサや共同体の祈りなど、日課になっているものは、慣れすぎて上の空だったり、おろそかにしてしまったり…。

教会共同体であれ修道共同体であれ、私たちはイエス様のみ名によって集まっている、ということをいつも味わいたいです。イエス様が「私もその中にいるよ」と約束してくださっているのですから!

 

≪聖書箇所≫ マタイ 18:15-20

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」