12/3 若い人のための日曜日の聖書 待降節第1主日 マルコ 13:33-37

冬を待つ修道院のアメリカ楓。毎年、クリスマスを待つために美しく染まり、全てを神様に捧げる木です。

あなたは待つ人ですか、それとも待たせる人ですか?

今は、5分の遅刻でも携帯に連絡が入ります。
逆に遅れるこちらが連絡しなければ、携帯にメッセージが入ったり電話がかかってきたり・・・

昔々、携帯がなかった頃は、「待ち人来たらず」で長く待たされたり、待たせてしまったりと言うことがしばしばありました。
あるとき、初対面の方と銀座のヤマハの前で待ち合わせしたのですが、私が遅くなったために、その方は私の家に電話を入れました。

ちょうど母が出て、「娘は白と赤と緑と紫のストライプのワンピースを着ています」と言ったら、その方は絶句してしまった、とのことでした。確かに色に間違えはないのですが、白地に細い3色の縞で、少し離れて見たら、白にしか見えないものでした。無事にお会いできて用事を済ませ、帰宅してこの話を聞いて笑ってしまいました。

いずれにしても、せっかちな私は、今も昔も待つのも待たせるのも好きではありません。

それなのに、待降節にはこれでもか、これでもか、と「待つ」ことが強調されます。

クリスマスが近づくと忙しくなって、むしろ「クリスマスがあと1か月先だったらいいのに」などと不謹慎なことを考えてしまう私です。

この待降節は「目を覚まして待つ」ということをテーマに祈り続けさせてください、とあらためてお願いしました。

10月1日以来、珍しく体調が悪かったこと(鬼の霍乱、いえ悪魔の霍乱でしょうか)もあり、また考えるところもありで、このエッセイを休んでおりました。
金曜日、土曜日にプレッシャーがなくて、楽は楽でしたが、何人かの方から復活してほしいと言う希望をいただいて、待降節を機に復活することにいたしました。

「お待たせいたしました」。またよろしくお願いいたします。

 

≪聖書箇所≫ マルコ 13:33-37

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」