12/17若い人のための日曜日の聖書 待降節第3主日 ヨハネ 1:6-8, 19-28

エルサレムの教会に飾られているという、瓦礫の家畜小屋の幼子。数日前にNHKのニュースに一瞬映ったので、ネットで探してみましたが、見つかりませんでした。がっかりしていたところ、今日、偶然にもある方のメールに添付されてきました。この幼子を、私たちはこれ以上傷付かないように、大切に受け取っていきたいものです。

あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。

この言葉を読むたびに、一体どういう意味かと長い間思ってきました。

別の翻訳では、「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる」。

ふと気づけば、私は洗礼によって神の子らの一人とされ、さらに修道誓願よってイエス様に難く結びつけられている。社会の中の多くの方々が知らないイエス様を、私は知っている…はず。そして、洗礼者ヨハネ同様、知っているイエス様をさらにだれかにお知らせするために私は生きている、いえ、生かされている。私が何をしていようとも…祈っていようとも、食事をしていようとも、仕事をしていようとも、だれかと話しをしていようとも、さらには怠けたり、人の悪口を言っている時でさえ、神様は私に、イエス様を伝えるという最も大切な役目を負わせ続けてくださっている…

このように祈りの中で思いつき、あらためて残りの待降節を、幼子を待ちわびながら過ごす恵みを願いました。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 1:6-8, 19-28

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。