
この絵を見ると「ウォーリーをさがせ」を思い出します。
イエス様、マリア様はどこでしょう?
ちょっと想像してみてください。
あなたが結婚式と披露宴を開くことになって、親しい友だちを何人か招待しました。
ところが最も親しいと思っていた人が、どうしても抜けられない仕事があると断ってきました。
あなたはがっかりしましたが、仕方ありません。
ところが後になって、その人があなたとはあまり関係のない別の友だちの結婚披露宴に出ていたことがSNSで分かってしまいました…。
あなたはどう感じるでしょう。
「私はあの人のことを『最も親しい』と思っていたけれど、あの人にとってはそうではなかった」。
結婚の喜びはこんなことで削がれないかもしれませんが、やはり心のどこかでがっかりするのではないでしょうか。そしてそれから先、その人とあまり付き合いたくない、と思うかもしれません。
今回の聖書箇所では「天の国」をそんな話でたとえています。
実際にはありえないでしょうが、王様に婚宴に招かれた人がみな、その招待より優先するものの方に走ってしまいます。
そこで、王様は家来たちに命じてだれでもかれでも婚宴に引っ張って来させます。まるで、スーパーの大安売りの呼び込みです。
それで、婚宴の席は「善人」「悪人」でいっぱいになりました。
まっとうな生き方をしている人もいれば、そうでない人もいたわけです。
正しい人と罪人、と読み替えてもいいでしょう。
王様は、この善悪によって差別するということをしませんでした。
ただし、晴れ着を着ていない一人の客人を発見して、厳しい措置を講じました。
もちろん、さっきまで通りを歩いていた人々が王様の開く婚宴にふさわしい服装をしていたわけがありません。そんなことは王様もご存じです。
このような折には、上の者が下の者のために晴れ着を整える習慣があったことが、旧新約聖書に見られます。
ヤコブの息子ヨセフを引き立てるにあたって、エジプト王は彼に、亜麻布の衣服、印章のついた指輪、そして金の首飾りを贈っています(創世記41:41)。
放蕩息子のお父さんも帰ってきた息子に、一番よい服、指輪、履物を贈ってから宴会の席に着かせます(ルカ15:22)。
だから、「礼服を着ていない者」とは、「あえて着なかった者」なのです。
私たちはみな、資格もないのに天の国に招かれています。
そしてそこに入るためのすべてを、恵みとして保証されています。
それにも関わらず、そこに入ろうとしないのは「私」です。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉を、イエス様はどんなに残念な思いで口にしていらっしゃるでしょう。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ22:1-14
イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」