「苦しい読書」というのがあります。
私の趣味のひとつは紛れもなく読書で、楽しいから本をよむのですが。
この『河北新報のいちばん長い日』は、偶然図書館の書架で見つけ、同じ時を東北(福島市)で過ごした者として、「読まなくてはならない。あの時、報道関係者に感じた疑問や嫌悪感をもっと突き詰めたい」という思いで読み始めました。
東京に生まれ育った私は、「地方紙」というものを見たことがありませんでした。桜の聖母学院に勤めるようになって初めて、「福島民報」「福島民友」という地方紙があること、福島の人たちは全国紙よりむしろこちらの方をよく読んでいることに気づきました。今だから告白しますが、地方紙を読んでいる人より、全国紙を読む自分の方がエライというような奢った心を持っていました。
あの日2011年3月11日、停電した学校の中で、携帯で津波の画像を食い入るように見ている先生がいました。仙台から福島に通っていた方です。その方は、それから間もなく校長の許可を得て早退しました。早退されなかった先生方の中にも、いまだに家族が行方不明という浜通りの方もいらっしゃいます。
私は…目の前に残された生徒200人(この夜のうちに迎えが来なかった生徒が20人)の方が心配で、「津波なんか何よ、この生徒たちをどうにかしなくては」という思いでいっぱいでした。津波の画像を初めて見たのは、よく朝、停電が復旧してTVを付けた時です。大変なことだとは思いましたが、なお、私の心は自己中心で、目の前のことでいっぱいでした。
それにしても、震災の後、当時本当に切実だった情報(診療している病院、給水車の来る場所や時間、洗髪サービスをする美容院等)を伝えてくれるのは地方紙でした。と同時に、報道される悲惨な写真、談話には、「よくこんな時に取材できるものだ」と腹立たしい気持ちになりました。そして間もなく原発問題が起こり、「津波より原発事故の方が大変。始末がわるい」という自己中心に再び陥って、津波に関する問題は、私の中で終わらせていました。
1年後の2012年3月11日に、東北何県かの地方紙が共同して、1年前の12日の朝刊を縮小版で並べた特別頁が新聞に挟みこまれました。今、この本を読み終わってこの特別頁を思い出すと、胸が熱くなります。自らも被災者でありながら、「それでも報道を続ける、新聞の発行と配布を途切らせない」という強い使命感に感動したからです。「ごめんなさい。助けてあげられなくて」という思いでシャッターを切り続けたことも、仮設の中で唯一の情報源である新聞を切実な思いで待っていらした人々の心情もよく理解できました。
震災直後から、原発周辺以外の被災地を訪問するツアーがあちこちで組まれていましたが、私が浜通りの災害状況を見に行ったのは、震災から2年半後でした。それまでは、とても行く気にはなれませんでした。あの静かすぎるくらいに静まり返った場所が黒々とした水で満たされ、様々な物音と人とで混沌としていた時、取材に駆けずり回っていた新聞関係の方々に深い敬意を捧げたいと思います。そして、この本を出版してくださったことを心から感謝します。
苦しい思いで始めた読書が、感動で終わりました。(Sr.斉藤雅代)
河北新報社著、『河北新報のいちばん長い日—震災下の地元紙—』 文藝春秋 (2011/10/27 )