9/2 若い人のための日曜日の聖書  年間第22主日 マルコ7:1-8、14-15、21-23

昨年の暮れに『手を洗いすぎてはいけない』という本が出ました。サブタイトルは、「超清潔志向が人類を滅ぼす」。「やっぱりね」と思いました。最近は、夏場は食中毒予防のため、冬場はインフルエンザやノロウイルスに感染しないようにと、学校でも教育され、職場の洗面所にも手の洗い方が貼りだされています。

私は、ある時自分の体によくきいてみて、手を洗うことを極力やめました。洗いすぎて手がガサガサになると、オルガンを弾くにも、フルートを扱うにもやりにくいことが第一ですが、ガサガサの手に「健康」を感じられなかったからです。同時に、日本社会の清潔志向が、あまりにも不自然に思えたからです。サーズが流行した時でしたか、ミサの聖体拝領(イエス様の体となったパンをいただくこと。ミサの中心です。)をやめることを真剣に考えたカトリック教会があったそうで、ここまでいくと、清潔志向そのものが、まるでひとつの宗教のようです。

イエス様の時代の、ユダヤ教の戒律をまじめに守る人たちは、どのように手を洗い、身を清めていたのでしょう。当時の市場というのは、洗っていない野菜や果物が並び、生きている家畜が取引されたでしょうから、当然手は汚れたと思います。宗教的戒律として手を洗うことが、他の民族に比べて当時のユダヤ人の多産や健康長寿を支えていたかもしれません。

しかしイエス様は、「もっと大切なことがあるよ」とおっしゃいます。人間の掟より、神様が聖書を通して、あるいは周りの人や出来事を通して教えてくださる掟の方がずっと大切だと。そして、人間の掟に忠実であるあまり、さらに大切なことをないがしろにしていないかと。

では、あなたの囚われている「人間の掟」は何でしょうか。これに気付くことが、神の掟に生きることの出発点ではないでしょうか。これは案外気付きにくいし、無意識に気付いても気付かないふりをしてしまうこともあります。人間の掟に囚われていた方が楽、という選択肢もあります。でも、楽なだけで、実は自分も周りの人も苦しめます。これが、福音書の中でイエス様にしばしば非難されているファリサイ派と律法学者の生き方です。

偶然の一致ですが、この本で推奨されている「石鹸を使わず、流水で10秒程度」を続けて数年たちますが、まあまあ滑らかな手で風邪もひかず、食中毒にもかかっていません。学校に勤務していた時、生徒たちは3分でも5分でも、水道を出しっぱなしにして熱心に手を洗っていましたが、彼女たちの方があきらかに私より病気になる確率が高かったです。  (斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ 7:1-814-1521-23
 (そのとき、)ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、

 その心はわたしから遠く離れている。

 人間の戒めを教えとしておしえ、

むなしくわたしをあがめている。』

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」