「今宵は月がきれいですね。
と、マンションから眺めていたら、
救急車のサイレンが鳴り響きました。
そんな夜です」。
つい先日、スーパームーンが話題になっていた頃、明治学園の卒業生M君が、このような記事をアップしていました。
ここまで読んで、想像力と思いやりに欠けている私は、「M君、ロマンティックな夜を過ごしているんだ」と思ってしまいました。一人で孤独に?、あるいは、傍らに素敵な女性が佇んでいたりして…。
ところがです、続く一行がありました!
(意訳: どうか、呼ばれませんように)
そうか、そうだよね。ドクターだもの、「救急車のサイレン」=「緊急呼び出し」=「月どころじゃない」という公式が、やっと私の頭の中に浮かびました。
それで、コメントを書きました。「意訳、思ってもみませんでした。きっと呼ばれたら飛んで行かれるのでしょうけれど」。
これに対して「まぁ、それが自分の選んだ仕事ですから」、何となくはにかみを含んだコメントが返ってきました。
M君は、個性的な生徒が多いM学園では、目立たない生徒でした。静かで無口。ちょっとぶすっとしているように見えるくらい。中高時代の彼と、まとまった話をしたという記憶がありません。でも、なぜか存在感はあったので、名前も顔もはっきり覚えていました。
今は、30歳くらいかしら。小児科のドクターとのこと。どんな顔で、どんなふうに子どもやお母さんに語りかけているのかしら、と想像してクスッと笑ってしまいました。
私の教え子は40歳代、30歳代、そして最後に担任をした生徒たちが今年ちょうど成人式を迎えたところです。人生の一番よいところを走っているところ。それぞれに苦労や悩みがあるでしょうが、それでも「人生の一番輝いている時」でしょうと思います。
今回の福音箇所のイエス様もそうです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とは、なんと誇りと自信に満ちた言葉でしょう。私はこの箇所が大好きです。赤ちゃんのイエス様も愛おしいけれど、このカッコいい30歳くらいのイエス様には惚れ直します。
実際には、カッコいいどころか、十字架の死に向かう「初めの一歩」なのですが。福音書の中でイエス様が「皆から尊敬を受けられた」と書かれているのはここだけです。あとは…反対を受け、軽蔑され、とうとう十字架上の死という不名誉な最後を遂げるのですから。
ともあれ、この箇所は三年に一度ですが、クリスマスシーズンが終わった今頃読まれます。「さあ、このイエス様とともに1年を過ごしましょう」、と誘いかけるかのように。
はい、共にこの一年も歩ませてください。私はあなたの熱烈なファンで、熱狂的な「信者」です。
(Sr.斉藤雅代)
※写真は、M君のFacebookから。
≪聖書箇所≫ ルカ 1:1-4、4:14-21
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
(さて、) イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。