10/6 若い人のための日曜日の聖書  年間第27主日 ルカ 17:5-10

私の一番好きな「お告げ」。フィレンツェのサン・マルコ修道院の壁画です。

「神様は、負えない重荷は負わせない」っていう言葉、嫌いです!

祈るために修道院に来た一人の若い女性と面接している最中に、彼女はこう言い放ちました。

若くて、美しくて、人一倍能力に恵まれた人。仕事にも恵まれて、一見何の不自由もないように見える人でした。もちろん、唐突にこの言葉を口にしたわけではなく、彼女がこのようにつぶやくには十分な理由がありました。

それでも思うのです。信仰とは、たとえ何があっても、そこに希望を見出し、神様が必ず乗り越えさせてくださると確信することだと。

そして、信仰の足りなさを自覚する時、「信仰を増してください」と願うのではなく、今回の福音箇所で勧められているように、「私は取るに足らない者です」とへりくだること。

へりくだりのチャンピオン(女王と言った方がよいかも)はマリア様です。お告げの天使にとんでもない内容を告げられた時、彼女は「いえいえ、私なんか到底無理です」とは答えませんでした。むしろ、スキっと立って「おことばどおり、この身になりますように」と答えたのでした。

このようにして展開した彼女の生涯はどのようなものだったでしょう。イエス様が家を出られたのは、彼女が初老に差し掛かる頃でした。その後を追えば、「私の母とは神のみ旨を行う人のことです」と言われ、最後には、この世から拒絶されたイエス様の死を見届けることになります。その時、マリア様は「何が、いと高き方の子と呼ばれる、ですか」「何が、父ダビデの王座ですか」とは言わなかったでしょう。むしろ、悲しみの中にあってなおかつ「私はしなければならないことしました。最後までおことばどおり、この身になりますように」と祈ったのではないでしょうか。

「神様は、負えない重荷は負わせない」という言葉は、好きであっても嫌いであっても本当です。

私たちの応答は、マリア様と同じく、「はい」と、重荷を軽くしてくださる唯一の方を信じて付いていくしかありません。それが救いの訪れなのだと私は思います。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 17:5-10

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」