11/29 若い人のための日曜日の聖書 待降節第一主日 マルコ 13:33-37

「平和の君」であるイエス様を迎える待降節の輪を、オリーブの枝で作りました。

明日から待降節という土曜日の午前中、私は久しぶりにマスクを縫っていました。春の緊急事態宣言の頃は、ひたすらマスクを縫って、お世話になった方に送ったり、注文までいただいていました。「祈りのマスク」という名で、ルルドの聖水を1滴かけて、わが修道院のルルドの「枯山水」風の「枯泉」に置いてお祈りし、その画像を撮って、マスクに添付していました。

このところ、様々な種類のマスクが簡単に手に入るようになり、一方私は私で別の予定が増えてきたので、マスクを縫う機会がありませんでした。先週たまたま、以前にご夫婦で注文してくださった方から、再注文が入りました。それで今朝、まず裁断を始めたのですが、自分の手元にびっくりしてしまいました。

緊急事態宣言の頃は、マスクに相応しいような布地もゴムひもも入手するのが大変で、布地はあちこちひっくり返して、一枚でも多くカットできるように細心の注意を払って裁断していました。

ところが、第三波とGo toトラベルが両立し、どこでも何でも手に入る今、私は無造作に、つまり少々の布地の無駄は気にかけずに、すいすいと布地をカットしているのです。半年前のあの神経の張りつめた裁断が嘘のようです。

私は、マスク作りにみられるように、生活全体において神経が研ぎ澄まされていたようなあの頃と、それほどでもない現在とを比較して、自分の内の感覚のわずかな差と、そこに端を発している行動の相違に、我ながら驚き、不思議な思いさえしました。

先週、待降節はカトリック教会の「新年」にあたると書きました。「年の瀬」から新年にかけてのこの期間に読まれる聖書のテーマは、いつも「目覚めていなさい」です。

一体、何に覚醒しているべきなのでしょう。

「大切な人が突然やってくるかもしれない」と待ち受ける時、あなたならどうするでしょうか。

何かをしていても、足音が聞こえないかと耳を澄ませているような状態、窓の外にその人の姿が見えないかと時々目をこらすような状態・・・それは一種の緊張状態と言えるでしょう。

マリア様、旅の途中でこの世に生まれ出ようとする幼子を待ち受けられたあなたは、どんなに切実に、神経を研ぎ澄ませて「その時」を待ったことでしょう。喜びと不安の、どちらが大きかったのでしょう。

マリア様、私も神経を研ぎ澄ませて、幼子の誕生をあなたと一緒に待たせてくださいね。この待降節に、祈りの中で、あなたとたくさんお話できますように。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 13:33-37

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」