こくる、告る、告白る…
耳で聞いて覚えた若者言葉のひとつ。私にとっては、「愛を告白する」と略さずに言った方がしっくりきます。
「あなたが好きなんです」と最後に告られたのは…20代の時ではありません。50歳前半で、相手は中学生ではありませんでした。
どうしてこんなことを書いているかというと、今回の福音箇所の最後のペトロの言葉は、私には愛の告白としか感じられないからです。パンの増加の奇跡に続いて、イエス様は「私が命のパンだ。私を食べる者は永遠の命を得る」とおっしゃり、この言葉が大変な物議を醸しだします。「弟子たちの多くが離れ去り」、その後で、イエス様は十二人に「あなたたちも私を見捨てるのか」と尋ねます。その時に答えたのがペトロです。
この箇所は、ミサの中ではイエス様の体となったご聖体をいただく前の信仰告白として「あなたをおいてだれのところに行きましょう」と訳されています。この美しい言葉が大好きです。
ミサの中の信仰告白と同様、誓願式(シスターになる式)で誓願文を読み上げるのも、愛の告白です。私たちコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターは、修道会の規則のひとつとして決められた誓願文を読みますが、他の修道会で、誓願文を自分で作文するという会もあります。もちろん、決められたいくつかの要素を入れ込まなくてはならないのですが、このやり方も素敵です。
さて、もしもペトロも他の十一人もその場にいなくて、イエス様と私だけだったら、そしてイエス様に「あなたも私を見捨てるのか」なんて尋ねられたら、私はなんとお答えするのでしょう。「いいえいいえ、手鍋下げても私はイエス様に付いていきます」とでもお答えするでしょうか。
あなたなら、なんと答えますか?
≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:60-69
(そのとき、)弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」