3/24 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第3主日 ルカ 13:1-9

泥の中に何かを見付けてしまったショベル君

最近、とっても心に残る絵本に巡り合いました。

『ショベルくんとあおいはな』(ヨーゼフ・クフラー著)

青い鼻じゃなくて、青い花ですよ。

クレーン車やブルドーザーと共に新しい街の建設に勤しむ「はたらくくるま」たちのうちのショベルカーのショベルくんは、ある日、現場の泥の中に小さな青い花が咲いているのを見つけ、立ち去れなくなってしまいます。水を遣ったり、風をよけてあげたり、夜には子守歌をうたってあげたり…。でもある日、そこにも新しい建物が建つことになって、止める間もなくブルドーザーに青い花はなぎ倒されてしまいます。悲嘆にくれるショベルくん。…その時彼は、ちりじりになった青い花のそばに、その種が落ちているのを見つけます。ショベルくんは種をすくい上げると、一目散に野を越え山を越え、遠いところの高い山の上に種を運んでそこに蒔きます。やがて、芽を出した青い花にショベルくんは、水を遣ったり、風をよけてあげたり、夜には子守歌をうたってあげたり…。「ショベルくんは、あおいはなといると、それだけでとてもしあわせだったのです」。

私はこの単純な、でもなぜか鼻の奥がツーンとなるお話を何度も何度も読み返しました。

そして、福音書の中の「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12:20)という一節を思い出しました。

今回の福音書の後半も同じです。実のならないいちじくも、イエス様は、すぐにも折れそうな葦や消える寸前の灯火と同じように大切に守ってくださいます。そして、都合の良すぎる解釈かもしれませんが、来年もならなかったとしても、きっともう一度「もう一年待ってください」と執り成してくださるのではないでしょうか。イエス様はそうした気の長いお方です。

神様、あなたやイエス様やマリア様の寛大さに甘えるだけでなく、どうぞ私も寛大な者となれるよう、力を貸してください。せめて、この不寛容な「私」から解放されることを私が願えますように。そして、青い花のように、あなたを喜ばせる存在になれますように。

ちょっと気になったのは、遠いところの山の上に青い花の種をまいたショベルくんは、それからも街に仕事に行ったのかしら、ということ。「人は愛がなくては生きていけないけれど、愛だけでも生きていけない」と、昔ある人に言われた言葉を思い出したからです。

私は、私たちの修道院の建て替え工事で働いてくださっている監督さんたちに、この本をお貸ししました。若い監督さんは、「自分ならもう仕事には行かない」とおっしゃってから、ちょっと間をおいて「植木屋さんのショベルカーになる」とのこと。そんな解決策があったのか、と彼のやさしさと機知に敬服しました。   (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 13:1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

「ショベル君は青い花といると、それだけでとても幸せだったのです」。

一人の姉妹が、建築現場から掘り返してできた土の山の上に「我が家の青い花」が一輪咲いているのを見つけました。この土の山はまたいつ崩されたり移動されたりするか分からないので、そっと掘り返して、いったん植木鉢に移しました。この山を築いたショベルくんの心遣いでしょうか、それとも神様のみ業でしょうか。