「狭き門」と聞いて、あなたは何を思い出しますか?
私は、よく新聞記事で見かけるような気がして、試しに朝日新聞の記事を検索してみました。なんと今年だけですでに44回この言葉が使われています(一か月に5回以上!)。 ほとんどは、受験や就活など、競争原理が働いているところで。
私にとって「狭き門」は、やはりアンドレ・ジッドの小説です。愛と信仰を描いた小説と言われますが…。
この小説を、何の違和感も感じずに紅涙を流しながら読んだのは、中高生の頃でした。大学生の時には、フランス語購読のテキストに、この本とプルーストの『失われた時を求めて』が使われ、辞書を引き引きやっとこ読んだことを懐かしく思い出します(まだ電子辞書がなかった!)。
しかし、洗礼を受けてから「あれ、この小説おかしいぞ」と思うようになりました。
なぜ、アリサの日記の中の神様はこんなに冷酷なのでしょう。そして彼女がその冷酷な神様の「神の国」にあこがれるのはなぜでしょう。彼女にとって、神様とはどのようなお方であり、神の国とは何なのでしょう。彼女は狭き門から入って、どのような生活をしたかったのでしょう。
確かに彼女の言うように神様は嫉妬深いお方です。でもそれは、自分の方を向かせてから、想像を絶するほどにご自分を私たちに与えるためです。その恵みは、アリサの犠牲、失ったものなんか足元にも及ばず、彼女がジェロームも何もかも一瞬にして忘れさってしまうほどのものです。もし、その想像を絶する恵みに気付けず、神様を嫉妬深いとのみ見るのであれば、それは、アリサが、神様の本来の嫉妬深さを見ているのでなく、神様をどこかゆがめて見ていると言うことができます。
アリサに限らず、私たちはだれでも、神様をゆがめて、好きなように見ているところがあります。たとえば、「私の神様」は私に甘すぎるかもしれません。
ある人の神様は完璧主義者ですし、またある人の神様は社会の問題の一部(たとえば環境問題とか)しか気にかけない神様です。
私たちは常に、この自分のゆがみを正していただくよう、そして神様というお方をできる限り正しく認識することができるよう、祈らなくてはなりません。そうすれば、神様は、狭い戸口から入ろうと努める私に手を貸して引っ張り入れ、それから「よく入ってきたね」とぎゅっと抱きしめてくださる、と私は思うのです。
そしてもし狭い戸口から入れなくても大丈夫!
神様が、あなたにふさわしい時に手を引っ張って、何が何でも神の国に入れてくださいますから。私たちが、自分のゆがみを矯正してくださるよう神様に祈り続けるなら、神様は「あなたを知らない」なんて決しておっしゃいません。マリア様、そうですよね。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ 13:22-30
(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」