10/27 若い人のための日曜日の聖書  年間第30主日 ルカ18:9-14

そのお母さんと兄妹の古い古いスナップ。

「私たち兄妹は、母が亡くなった後、それぞれが『自分が兄妹の中で一番お母さんに愛されている』と思い込んでいたことを知ったのです」。

もう何十年も前に、ある友人から聞いた話。

このお母さん、すごいなあと思いました。

私は一人っ子だったから、兄弟のことはよく分からないけれど、それまでの友人たちはみな口々に言いました。

「私より、兄弟姉妹の方が親に愛されている」「私より、〇〇ちゃんの方が甘やかされている」等々。

親の立場に立ってみれば、精一杯平等に愛しているのかもしれません。それでも、その愛が公平であることはなかなか子どもに伝わらない。それは、私たち人間の中に、比較と競争というなかなか抜けることのできない、不幸な原理が働いているからでしょう。

大丈夫、この原理からまったく解き放たれている人を私は一人も知りません。

つい先日もとても精神的に成熟している(と私が思いこんでいた)姉妹に、おせっかいにも「そんなに自分を疲れはてさせてまで、そのことをしなくてもいいじゃない」と言ってしまった時、返ってきた答えは意外でした。

「だって私は〇〇ができないから、せめてこれをしたいの」。その響きは悲痛でした。

私は、本当に悪いことを言ってしまった、彼女の劣等感をさらけださせ、その心を深くえぐってしまった、と思いました。それにしても、〇〇ができるかできないかは、彼女という人間の価値にまったく関係のないことで、だれも彼女をそのことによって貶めていないのに、本人だけが密かにそうしているのです。人間って、悲しいな。でも、だからこそ、そこに神様の救いがあるのでしょう。

さて、今回の福音に戻りましょう。うぬぼれ屋さんは言います。「エヘン、僕、他の人と違ってなーんにも悪いことしていないよ。ちゃーんと掟を守っているよ。神様、こういう僕でありがとう!」。

「おやおや、自分を知らないね」と言われても仕方ないでしょう。神様に本当に感謝しているのか、単に自分に酔っているだけなのか、あやしいものです。

でも、もう一人の人は知っています。自分がどんなにだめな人間で、神様の救いが必要であるかを。「だめ人間」の尺度が他者との比較であるのかどうかは分かりませんが、自分をよく見詰めた上での心情の吐露のように思えてなりません。

神様がお喜びになるのは、この心情だと私は思います。うぬぼれ屋さんだって愛されていますが、少なくとも「うぬぼれ」そのものを神様はお喜びにはならないだろうと思います。

比較と競争は苦しいものです。劣等感も優越感も、一枚その薄皮をはぐなら、自分自身を害するものであることが分かるでしょう。しかしその「自分」で神様に向かうなら、神様はどんなにその人をかわいく思ってくださるでしょう。

これは本当です。他者との比較と競争に陥りやすく、劣等感の強いうぬぼれ屋である私の体験から、断言します!  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 18:9-14

(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」