「本当に神の子なら、〇〇してみろよ」。
イエス様は、生涯の2つの時点で、このような言葉で挑発されています。
一度は、宣教を始める前、40日の断食の後、悪魔から。
二度目は、十字架の上で、人間から。
「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。
短気な私なら、これらの挑発に易々と乗ってしまいそうですが、さすがにイエス様、適切な言葉で、あるいは沈黙でこの挑発を退けています。
今年の四旬節(復活祭の準備期間)は、2月26日の水曜日から始まりました。この日にちょうど、私たちの修道院で集まりがあって、「共同識別」に関する講話を伺いました。
共同識別などど感じが4つも並んでいるとなんだか難しそうですね。
「識別」とは、神様がどのように私を歩ませたいかに敏感になること。言い換えれば、私を神様から遠ざけようとする悪魔やら人間(特に自分のエゴ!)やらの誘惑や戦術を神様からのものと見分け、ただ神様だけを私の考えや行動の基準とすること。
そして、グループで何かを決定しようとする時などに、みんなで見分けようとするのが、共同識別です。
イエス様が識別の天才であったことは、今回の福音箇所から明らかです。巧妙な悪魔は一見「よいもの」をイエス様に提供しようとします。もしイエス様が「世のすべての国々とその繁栄」を手に入れられたら、きっと善政を敷いて、すべての人を救ってくださったことでしょう。しかしそのためには、悪魔に屈服しなければならないのです。そして、いったん屈服してしまったら、もはや救いどころではないでしょうね。
私たちも、そのような罠にはまらないように、逆にいつもいつも神様に手を取って導いていただけるように、祈りの内に自分の心の動きに敏感でなければなりません。
無原罪のマリア様、どうか私たちが自分の心が、神様に向かっているのか、的外れに別のものに向かっているのか、見分けさせてください。そして、神様の方向を取らせてください。
四旬節は、祈りと節制と愛の行いをする季節。マリア様と共に、神様の方向に歩んでいきましょう。
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 5:38-48
(そのとき、)イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。