「先生、そのクロス、どこで買ったんですか?」
教師をしていた頃、よく新中一などに質問されました。
「買ったんじゃないいのよ。シスターになったしるしにいただくの。亡くなった先輩たちから受け継いで」。
ちょうど、家族の中で、高価なものを形見に分けるような感覚、といったらよいでしょうか。ただし、だれか姉妹が亡くなると、いったん修道会の事務局にお返しして、クリーニングした後、新しいシスターが誕生するまでストックしておくので、だれからだれへと引き継がれたかは、はっきり分かりません。
そして、「銀の十字架」と表現しますが、純銀ではないようなので、金額としては決して高価ではないでしょう。でも、私たちにとっては一生身につける大切なものです。特に私たちコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターたちは、この十字架の他に目に見えるしるし(修道服とか、指輪とか)がないので、いっそう大切です。
17世紀当時の農家のおかみさんのような質素な服で一生を過ごした私たちの修道会の創立者聖マルグリット・ブールジョワは、次のように書いています。
「ヴェールやゲンプ(昔の修道服に付いていた胸当て)がなくても、修道女に見えるように」。
よく「お風呂に入る時ははずすんですか?」とか「寝る時も付けているの?」と質問されます。
私は外しています。そして、たまーに、朝着替えた時にうっかり付け忘れ、ミサの最中にふと気づいたりすると、ちょっとあわててしまいます。
「あっ、イエス様、ごめんなさい」と。
なんとなく、イエス様にうっかり知らん顔してしまったような気持ちになります。もちろん、イエス様はそんなことを気にもかけないと、よく知っているのですが。
銀の十字架だけで、修道女に見える・・・本当にそうありたいと思います。だって、常に十字架を身に付けることはできますが、「私はイエス様の仲間です」と叫び続けることはできないから。
これを読んでくださっているみなさん、だれの仲間でありたいですか?
そしてそれをどんな風に表しますか?
イエス様の仲間であるって、素敵ですよ。イエス様が天の神様に「私の仲間ですよ」と紹介してくださるのですから。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 10:26-33
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」