三拍子の音楽といったら、あなたは何を思い出しますか?
ヨハン・シュトラウスのウインナ・ワルツ?
「うさぎ追いし」の「ふるさと」?
ジブリの「いつも何度でも」?
あるいは平原綾香のJupiter?
思いつくままに上げてみましたが、あなたの思いついた曲は何だったでしょうか。
中世ヨーロッパの、グレゴリオ聖歌など単旋聖歌に別の音が加えられるようになっていった頃、3拍子の聖歌がたくさん作られました。
聖なる三位一体の「三」を、なんとかして表現したかったからでしょう。
非常におおざっぱに言うと、大きな教会の聖堂は、たいてい真上から見ると十字架型で、正面から見ると、真ん中の身廊(しばしばヴァージンロードと言われる部分)を挟んで左右に座席があり、3つに区切られた形になっています。
これも、聖なる三位一体の「三」を意識したものだったのではないでしょうか。
カトリック教会では、旧約聖書でしばしば強調されている「偶像崇拝」を避けるより、文字の読めない貧しい人たちでも教会で目にするもの、耳にするものを通して聖書の教えが自然と学べるよう考えられていました。
音楽史の時間に試聴した三拍子の聖歌は、特に私に宗教的感動をもたらしたわけではないけれど、「偶像崇拝」を恐れないこの柔軟な考え方が、私はとても気に入っています。
何度も(たぶん毎年)三位一体の主日が巡ってくるごとに、この難しい教えについて何を書こうかしらと悩むのですが、今年は、だただた、「父と子と聖霊の名によって」というこの聖句を祈りの中で繰り返すことにしたいと思いました。
分からないことは分からないし、私は(ありがたいことに!?)ごミサの説教をする司祭ではないし、ただ、もしかしたらだれかこのエッセイを読んでくださる方のお役に少しだけ立てたら、と思って6年もこの活動を続けているので、きっと神様はこれで赦して下さる(!)という根拠のない、でも信仰は少しだけある自信で、今は静かな気持ちです。皆さま、どうぞよい三位一体の主日をお過ごしください。
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 28:16-20
(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」