6/27 若い人のための日曜日の聖書 年間第13主日  マルコ 5:21-24, 35b-43

今朝の雲。これも奇跡。

「あの、出血って、どこからですか?」

高校1年生の授業で今回の福音箇所を扱った時に、無邪気な質問をされました。

「ああ、女子だけのクラスでよかった」と内心胸をなでおろしながら、説明しました。(思春期の男の子には、ちょっと話しずらいからです。)

「月に数日だって人によっては大変なのに、12年間と言ったら、皆さんがものごころついてからずーっとよ」と言うと、みんな一斉に顔をしかめました。

「今のように質の良い生理用品はなかったでしょうし、多くのお医者さんに恥ずかしい悩みを打ち明けてお金を使い果たしてしまった。しかも、まわりの人からは汚れている罪人と差別されて、触れてももらえなかったし、この女性の触れるものもすべて清めなければならなかったのよ」。

クラスは、しーんとしてしまいました。

そう、この女性の肉体的以上に辛かったであろう精神的苦しみは、想像するだけで女性としてこちらも辛くなってしまいます。

「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とあります。

イエスはすぐに気付いたのです。この女性の指が、一縷の希望を託しておずおずと自分の服に触れたことを。

「だれなの? 私から癒しを引き出した信仰の持ち主は」。

「・・・私です。汚れた指で触ってごめんなさい。でも、触った瞬間、癒されました」。

なんと美しく感動的な場面でしょう。

一縷の望みを託して神様に賭けたことが、果たして私の人生にあったろうかと考えさせられてしまいました。

このような状況がなかったことが幸いなのか、そうでないのか、難しいところです。

さて、この場面を傍らで見守っていたもう一人の「一縷の望みを持っていた」ヤイロは立派です。

気の短い私なら、「イエス様、こんな女にかかずらわっていないで、一刻も早く私の娘のところに来てください」と懇願したことでしょう。しかも、イエス様がこの女性に声をかけているうちに、ヤイロの家から訃報が届きます。そして、死者の復活というさらにイエスのメシア性を強く示す奇跡へと話は繋がっていくのです。

劇的なシーンを単純な表現でかえって浮彫にするマルコならではの構成とも言えます。

この入れ子になったストーリーの中で、私の立ち位置はどこ(誰)でしょうか。

女性か、ヤイロか、目を丸くしていたであろう弟子たちか・・・

もしかしたら私たちは、常にこのような錯綜した現実の中で、弟子たちのように奇跡を見ながらそのことに気付いていないのかもしれません。

主よ、私に、奇跡を見る目をお与えください。あなたが私たちに与えてくださったこの地球、この人生、すべて奇跡です。これらをもっと深く味合わせてください。                          (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 5:21-24, 35b-43

(そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》
会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。