9/26 若い人のための日曜日の聖書 年間第26主日  マルコ 9:38-43, 47-48

『ベン・ハー』の、イエス様が主人公に水を飲ませるシーン。このワンカットが、結構長いのです!

昔々、宗教の時間を何回か利用して、映画『ベン・ハー』を生徒たちに見せていたことがありました。

もちろん2016年のリメイク版でなく、(私と同世代!の)1595年版です。

『十戒』『聖衣』など、聖書を題材として、巨額の撮影費をかけた20世紀のハリウッドの映画の中で、私はこの映画は秀逸だと思っています。

個人的に好きな理由はふたつ。

ひとつは、「キリストの物語」という副題が付いていて、降誕のシーンや十字架のシーンがありながら、決してイエス様の顔や全身を写さず、ほとんど「イエス」という固有名詞すら出ないこと。だから、この映画を見せる前には、生徒たちによーく説明をしておかなければなりませんでしたが、私は、私の祈りの中のイエス様のお姿を損なわないこの映画の作りが気に入っていました。

もうひとつの理由は、「水」が物語の展開に重要な役割を果たしており、渇いた者に与える一杯の水や雨が、「活ける水」であるイエス様を象徴的に表しているところ。

奴隷として繋がれ、罰として水を与えらずに炎天下を歩かせられる主人公にイエス様が水を飲ませるシーンは、本当に感動的でした。

キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。

通常の生活、特に現代の日本生活の中ではどうということのない「一杯の水」が、イエス様の時代のあの砂漠地帯の中でどれほどかけがえのないものだったか。

私たちは、今回のこの聖書箇所を、このようなコンテクストの中で読まなければならないと思います。

そして『ベン・ハー』の主人公が、やがて、十字架を背負って倒れるイエス様に水を飲ませようと走り寄ったように、私たちも、イエス様に水を差し出す者でありたいです。

イエス様、あなたに差し出す私の「水」はなんでしょうね。

教えてください。

最後に付け足し。

この文章を書くために、2016年版の『ベン・ハー』の紹介サイトをざっと見ました。何と、「壮大かつ壮絶な復讐劇がさらにスリリングに!」と書いてあって、驚きました。『ベン・ハー』は、長い間復讐に燃えていた主人公が、イエス様に接することで愛を知り、変えられていく物語です。憎しみを生きる主人公の人生と、愛を生きるイエス・キリストの人生が交錯し、愛が勝利を収めるのです。2016年版があまりヒットしなかった理由は、本質を描かず、スペクタクルのみ強調したからかもしれませんね。

※画像は、『ベン・ハー』の、イエス様が主人公に水を飲ませるシーン。このワンカットが、結構長いのです!

≪聖書箇所≫ マルコ 9:38-43, 47-48

(そのとき、)ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」