いよいよ、クリスマス当日が近づいてきました。このエッセイは、毎日曜日のミサの福音箇所を対象にしていますが、クリスマスが近づくと、毎日のミサの福音箇所も、イエス様誕生に至るストーリーが読まれ、あたかも、クリスマスを物語る絵本のページを一枚ずつ繰っているようです。
今回の福音箇所は、「ご訪問」と呼ばれます。天使のお告げを受け、神の子を宿した聖母マリアが、やはり不思議な次第によって子を宿した親戚のエリサベトを訪問するシーンです。
さて2年前、新型コロナウィルス感染症が問題になって以来、私たちの間で、「訪問する」ということの意味や価値が変わってしまった気がします。握手をする、抱きしめる、会食する、なども同じですね。
病人や高齢の一人暮らしの方を訪問したり、弱い人困っている人を訪問したりするのは、キリスト者にとって、イエス様の行いを模倣するとても大切なことでした。訪問は、「神様はあなたを見捨てていませんよ」というメッセージを暗に伝えるものでした。きっと、これをお読みになっているカトリック学校出身の方々は、学校時代に特別支援学校や高齢者施設を訪問した経験がおありでしょう。
今は残念なことに、人を訪問するには、訪問を受け入れてくれる所だろうか、その人は訪問されるということに不安を抱かないだろうかと考えなくてはなりません。
今日、私たちの修道院に訪問者がありました。新型コロナウイルスが大問題になる直前に修道院を建築してくださった方々で、それ以来、何度かお顔を合わせていますが、久しぶりに昼食を共にしました。黙食とまではいきませんが、静かに短時間でテーブルを囲みました。もしかしたら、一か月後には再びできなくなっているかもしれません。そう思うと、本当に訪問や会食には価値があり、イエス様も様々な人を訪問し、批判的な人には「大食漢の大酒飲み」と後ろ指をさされるくらい、様々な人と食卓を囲んでいらしたのに…と寂しくなってきます。
しかし、ウイルスの蔓延は何としてでも阻止しなくてはなりませんから、今しばらくは別の方法で「神様はあなたを見捨てていませんよ」というメッセージを伝えなくてはなりませんね。
身重の身でありながら山道を超えて旅をしたマリア様に習って、私もネットで、クリスマスカードで、電話で、メッセージを伝えていきたいと思っています。神様のみことばを実現させるお手伝いをするために。
≪聖書箇所≫ ルカ 1:39-45
(そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」