時々、こんなふうにイエス様を拒絶している私がいる。
今日の福音箇所の汚れた霊が教えてくれました。
先日、幼稚園のお母さま方への宗教の時間に、「長い時間をともに過ごしている5人の平均が、今と未来の自分を作っている」というエクササイズをしました。
自分の人生をいくつかのステージに分けて、それぞれのステージで最も長い時間を過ごしていた人を3~5人書き出します。
そしてその人たちが自分の人生にどのような影響を与えたかをみていきます。私自身もこのエクササイズをやってみて、気づいたのは、どのステージにおいても、最も長い時間をともにした人(方?)は神様だということです。しかもそうでありながら、そのことにそれほど気づかず、場合によっては、邪慳にしたり、影響されまいと抵抗していることにも・・・
「放っておいて、構わないで!なんでも私一人でできるのだから」
ほんとうは一人きりでは何一つできないのです。それを認めたくなくて、気づかないふりをしている私です。それにもかかわらず、私の傍でいつも私を見守ってくださる神様に赦しを願い、感謝をささげます。
ごめんなさい、神様、そしてありがとうございます。
≪聖書箇所≫ マルコ 1:21-28
イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。